アクターズ・コース メッセージ
「表現へと至る道」は無数にある。
古澤健(映画監督/アクターズ・コース主任講師)
孤独から始めてもいい。仲間を募ることから始めてもいい。修行にのめり込むことだっていい。他の勉強をしながらでも、会社に通いながらでもいい。
映画美学校は、あなたと違う考えや生活や理由を持った人たちが集まる場所だ。
なによりもアクターズ・コースは、映画と演劇という、近いようで遠い、遠いようで近い他人同士が集まるユニークな場所だ。そこであなたは自らの身体の思いがけない可能性を知り、実践を通じて「映画にとっての演技とはなにか」「演劇にとっての演技とはなにか」という問いを深化させていくことになるだろう。
映画美学校アクターズ・コースは、あなたにとっての「表現へと至る道」を見つける出発点になる
佐々木敦(アクターズ・コース特別講師)
アクターズ・コースの構想を知った時、いよいよ来たかと思うと同時に、なんともドキドキした。映画であれ演劇であれ、実際に観客の目の前に居るのは役者、俳優、演技者である。アクターは、ムービーの、シアターの、イメージの、プレイの、顔である。だが、いいアクターとはいかなるものか?、という問いは、当然のことながら一筋縄ではいかない。答えはひとつではなく無数にある。また、まだ誰も知らない答えだってあるだろう。アクターズ・コースは、その答えを生産するために誕生した。それは何よりもまず、未来の映画と演劇のため、その観客のためのものだ。数多くの才能を輩出してきた映画美学校が、現代演劇の最前線で活躍する俳優、演出家たちとタッグを組んだカリキュラムは、きわめて実験的かつ野心的だ。この試みは同種の「俳優養成学校」とはまったく違う。そのことを僕は初年度の修了発表公演を観て強烈に思い知らされた。あえて強調しておこう。あなたがも しも「いいアクター」を目指そうとするなら、アクターズ・コースは最良の扉となるだろう。僕は観客のひとりとして、興奮しつつ見守っているのだ。
松井周(アクターズ・コース講師・修了公演担当)
俳優という職業はまっすぐな若さやテンションやまぐれや雰囲気のみを武器に継続していくようなものではなく、自分をコントロールする理性的な判断と野性的な直感をあわせ持ち、時に真面目に、時にちゃらんぽらんに続けていくものだと思っています。俳優の技術とは、もしかしたらそれらの感覚を鈍らせないで自分や他人を研究していくことなのかなとも思うくらいです。観客が、現実の世界では到底愛せそうにない人を映画や舞台の世界の中で愛せるようになった時に、その作品全体が大きく動き出すことがあると思います。現実がフィクションに引っ張られるというか。そのことの善し悪しは置いておいて、凝り固まった人間観をほぐすことが僕にとっての作品づくりの動機でもあるので、俳優と共犯関係になってやれることはたくさんあるのです。是非一緒に修了公演をつくりましょう。
山内健司(アクターズ・コース講師)
若くてやる気満々な君たちへ
いい俳優はすべからく勉強家だと僕は常々感じます。勉強家が必ずしもいい俳優ではないという厳しい現実もあります。かように残酷な競争社会であります。しかし僕には、演劇がそんなちっぽけな競争の場とはどうしても思えない。もっともっと大きなものであると思うのです。例えば演劇ワークショップの現場で、子どもから大人から、様々な職業やどんな状況にいる人であっても、人が本気で演劇を遊び出す瞬間を目にすると、僕の胸の内は必ずざわつきます。この演劇の力に常に立ち返り続けること、ここが原点だと思います。
俳優は他者の言葉をしゃべる仕事だと思います。この世界のほぼ全ての言葉は自分の言葉ではない。他者の言葉を自分の言葉と思い込むことが俳優の仕事とはどうしても思えません。自分自身の言葉とどのくらい距離があるのか、なぜかくも距離があるのか、ここへの関心、興味は、すなわち他者への関心、興味です。これは尽きることなく楽しいことですが、これを仕事として、新鮮に喚起し続けることは生半可なことではないとも感じます。それが俳優の技術だと思っています。
日本の俳優は自分の仕事を言語化してきたでしょうか。演技することが仕事ですから、言葉で説明することは逆に言い訳めいたものとして、慎まれてきたきらいすらあります。ましてや現場に入ってしまうと、他の俳優がどのようにしているのかを事細かに尋ねることなどできるわけがありません。かくして演技についての、西洋での言語化されてきた膨大な蓄積に相当するものが、日本にはほぼ無いのです。
そして僕は僕の仕事を外に通じる自分の言葉として発信することが必要とされます。日本で演技を学ぶ場合たいていは演出家が教えるので、俳優が演技について語る場の新鮮さの理由はきっとここにあるのでしょう。俳優として、こんな学びの時間が持てればいいのに、という理想がいくらでも浮かびます。それは僕自身のあこがれだからです。それを追求することをやりたい。ここ映画美学校アクターズ・コースで、演技、映画、そして演劇をめぐる人の束にどっぷりまみれてみませんか。皆さんも自分の理想の学びを追求するといい。
近藤強(アクターズ・コース講師)
ニューヨークにあるアクターズ・スタジオは有名人をたくさん出した俳優養成所だと思われているみたいだ。
でも、あれは職業俳優が継続して自分の技術を磨き、挑戦する場を作ることを目的として、
俳優、演出家と劇作家のメンバーによって設立されたスタジオである。
毎週火曜と金曜の朝11時に来れる人たちが集まって、発表をして、ああでもない、こうでもないと意見を言い合っていたらしい。
何かうらやましいなあと思っていた。俳優として活動を始めると、どうしても出演する事が第一目的となって、 仲間と一緒に遊んだり、考えたり、失敗したりする場を持つ事が難しくなる。それは年を重ねるごとに難しくなる。
別に、僕は映画美学校は日本のアクターズ・スタジオを目指すとか言いたいわけではない。ただ、講師、受講生を含む全ての関係者が映画や演劇、演技について、ああでもない、こうでもないとごちゃごちゃ言い合える場が作れたら良いなあと思っていて、
そんな場所の始まりに関われている事にとてもワクワクしているのである。
鈴木卓爾(アクターズ・コース講師)
映画美学校アクターズコースは、第一義として、プロフェッショナルな映画俳優育成の場であり、そのための基礎となるユニークなトレーニングと経験の時間が、俳優講師陣と映画監督講師陣らの指導によって一年間行われます。
第一義の更に奥深く、学びの場としての意味でも、出会いの場としての意味でも、映画を貪るように吸収したいという意味でも、俳優という手段から映画の道へ向かいたいと思ってる人には、映画美学校は、ユニークで有機的なミネラルが溢れていると思っています。
現在の映画美学校は、プロフェッショナルからアマチュアまで、様々な監督、脚本家、カメラマン、俳優がひしめいています。ここは映画の学校というよりも、映画横町という雰囲気があると思っています。映画横町に入るには、けして安くはない受講料であり、そこは参加してみたいと思ってる皆さんを悩ませる大きな壁であると思います。悩んでいる方は、事務局に分割払いなどの相談を問い合わせしてみて欲しいです。
映画横町は、カリキュラム修了と同時に卒業という流れでは収まらず、おそらく求めるほどに終わらない映画世界への関わりの強い拠り所となるはずで、97年より運営してるフィクション・コースをはじめとした各セクションの映画横町の住民は、卒業後も映画美学校を拠り所としつつ、刮目すべき作品を世に送り出している人が多く、長い目で見れば、この講義料は決して高くないと思っています。
私自身は、俳優と演出とを、ほとんど兼業に行っているという立場から、アクターズ・コースの講師として参加しています。私が夢見るのは、映画へ加担する俳優がほとんどみんな、脚本であり演出であり美術であり撮影であり録音であるような思考を持ったプレイヤーです。
身がまえが、映画をさまざまな角度から思考しうる身体性をもった役者。
自分の身体と、映画機械と、他者と、三方との対話で、強靭な映画的身体性の獲得とその結果として立ち現れる映画、それは果たしてどんな映画か? それを一緒に思考しうる運動体として、そんな人物の出現を待ちわびています。
深田晃司(アクターズ・コース講師)
キノハウスを演劇空間に変貌させたアクターズコース『カガクするココロ』を見て心底興奮した。今ここで日本俳優史の重要な一手となるような新しい運動が起きている。確固たる哲学と技術をもった俳優が立ち上がろうとしている。その苗床たる映画美学校は今、本当に面白い冒険を開始したのだ。
西山洋市(アクターズ・コース講師/フィクション・コース講師)
ちょっと恥ずかしいけれどこの際告白すると、ぼくの野心は『人情紙風船』のような映画を作ることであった。
『人情紙風船』のような映画を作る、というのは、この映画の主役から脇役に至るすべての役で当時の劇団「前進座」の面々がやって見せてくれたような芝居の映画を作る、ということである。
それを実現することは不可能だと(当時の「前進座」のような芝居のできる集団はいまではもう無さそうだし、あったとしてもぼくの手の届く場所にではないと思っていたから)半ば諦めていたのだが、アクターズ・コースの面々が演じる芝居を見て、映画美学校になら当時の「前進座」のような劇団ができるのではないか・・ということは『人情紙風船』のような映画を作ることも可能なのではないか、と思ってしまったのである。
映画美学校のような場所に俳優志望の魅力的な人々がいるということは、つまりは不可能と思われた映画の野心に再び目を向けさせ、新しい映画を作り出そうとするモチベーションに火をつけてくれるということなのである。
新しい俳優と、その魅力を見出すことが、映画の「演出家」を動かす一番の原動力なのだ。
古澤健(アクターズ・コース講師/フィクション・コース講師)
映画美学校がどんな場所かと問われたら、講師と生徒が共に未来の表現を探っていく場である、とまずは答えよう。
僕自身がかつて映画美学校の生徒であった。
そのとき、講師である黒沢清や高橋洋は、おしみなく自らの手のうちをさらしてくれた。
だが、それは生徒たちに対して、「さあ、おまえさんたちはどんなことを考えているんだ?」という問いかけでもあった。
ここはただの「学校」ではないんだ、と緊張とともに興奮したことをおぼえている。
その緊張と興奮が、僕らをその後の映画制作に駆りたてた。
講師として関わって以降、今度は別の緊張と興奮に襲われることになる。
生徒たちとともに自主映画を作り、僕自身も彼らの映画に出演したりするようになり、そのことで自分の表現を見つめ直すことができた。
『making of LOVE』は生徒たちとの数年に及ぶコラボレーションの結実だと思う。
そして、僕は生徒たちと対等なライバル関係に立つことができたと感じている。
講師たちは生徒たちにプロの現場で知った工夫を伝え、生徒たち自身の才能を解放しようと、そればかり考えている。
そうやって10数年やってきた映画美学校が、共に未来の映画を作る俳優たちとの出会いを切望したとしても不思議はない。
青年団の協力を得て、映画美学校は基礎的な技術を持ち、かつ新しい表現をスタッフとともに作りあげる意欲のある俳優と出会いたいと思っている。
映画美学校は単なる教育の場ではない。
映画スタッフと俳優がともに新しい映画を作ろうと考える「現場」である。
篠崎誠(アクターズ・コース講師/フィクション・コース講師)
アクターズコース初等科2年目の開講に向けて
1年前の4月。アクターズコース1期生の面々が初めて一堂に揃う場に立ち会った。ひとりずつ自己紹介が始まり、彼らの初々しさと真剣さがまっすぐに伝わってきて、なんだか聞いているこちらまで緊張してしまった。
うまく言えないのだけれど、これまでの映画美学校にはなかった、名づけられないような「何か」がそこにはあって、以来時間が許す限り、彼らのワークショップや発表会に顔を出すようになった。
平田オリザさんの最初の授業では、緊張しているせいなのか、うまく台詞の言えない役者に、ちょっとした小道具を与えたり、ある仕草をさせてみたり、姿勢を変えるだけで、同じ台詞を言っていても、その台詞を言う時の、余分な力みが瞬く間に消えるのを目撃した(その意味でアクターズコースは俳優を目指す者だけでなく、監督、演出を目指す者にとっても実に有用だ)。
時に、外に取材に出かけて生きた言葉を採取し、時に、即興的にある設定を自分たち自身で考え、既存のテキストを身に馴染むまで何度も口にして、動く…。少しずつ彼らの中で何かが変化していく。
その一方、『CUT』のアミール・ナデリ監督を迎えた集中ワークショップでは、地下スタジオ中に情け容赦なくナデリの怒号が飛び交った。「演じているフリをするな! ただ、やるんだ!」「自分を信頼しろ! 自分のやってることを信じていないと全部嘘になるぞ!」「余計な間をつくるな! 長い! これは映画だ。いいか、この ショットはせいぜい15秒しか使えないんだぞ! その15秒の中でやりきれ!」。
楽しむということは、決して楽をすることでも無理をしないことではない。幾重ものシンドさをかい潜って初めて獲得できるものなのかも知れない。時に俳優は(天に唾するのを覚悟で言えば)理不尽な演出家や監督の要求にも、応えなければならない。アウェーで戦う、とはそう言うことだ。しかし、そもそも「ものつくり」にホームな ど、ありはしないのだ。たとえ、何度同じ俳優や監督、スタッフと組んでも、厳密に言えば、一期一会だ。いつだって、アウェーなのだ。
人のことはわからないので、自分の話をすることしかできないが、監督として経験を積めば積むほど、時として積み重ねてきた自分の経験が邪魔しているのではと思うことがある。目の前で起こっていることをちゃんと反応出来ないことがあるのだ。
しかし、アクターズコースの生徒たちをみて、俳優の仕事は、感覚とか感性に頼るだけでは無理で、やはり積み重ねた技術がものを言うのだと思った。「技術」という言葉は誤解を呼ぶかも知れないが、それはある不自由さの中で、より自由な表現へ飛躍するための道具のようなものだ(わかりにくいかな?)。
その場にちゃんと存在して、空気や温度、光、様々な音や相手の役者が発しているものを受け止めて、それに反応する。そのためには、心と体を開いている状態にしなければならない。口で言うのは簡単だが…。その手助けをしてくれる現役の俳優や監督、演出家たち(その二つをしっかりと行き来している講師もいる!)が、このアクターズコースには揃っている。
一夜漬けの勉強で覚えたものが、ほとんど何も残らないのと反対に、時間をかけて獲得したものは、そう簡単に消えはしない(自転車に何年も乗っていなくても、自転車の乗り方を忘れはしないように)。その意味でやはり1年という月日が必要だったのだな、と彼らの卒業公演『カガクするココロ』を見終わってあらためて思った。あとで、聞いたら、全員緊張していたと言うけれど、みんなちゃんとそこに存在して、反応していて、見ている間、幸せな気持ちになった。芝居がはねた後、さっそく脳内で妄想が次々と広がっていったのは言うまでもない。ああ、彼にはこういう役をやってもらいたい。彼女には意外とこういう役が似合うのではないか…。
さて、2年目となる今年、新たにどんな「共犯者」と巡りあうことが出来るのか、今からとても楽しみにしています。
三宅隆太(脚本コース講師)
自分が書いた台詞を、俳優が口にする、あの瞬間。
紙の上の登場人物が、生きた人間になる、あの瞬間。
私はたまらない歓びをおぼえるとともに、ほんの少しだけ寂しい気持ちになる。
彼らはもう、私だけの「子供」ではない。
俳優に命を吹き込まれ、映画という大海原へと旅立つ「大人」になるのだから。
さて、どんな「大人」に育つか……?
我々脚本家は、日々「役」を書き、俳優にその「命」を託している。
「役」を生かすも殺すも、俳優次第。
ゆえに怖いし、ゆえに楽しみでしかたがない。
脚本家と俳優は「役」という命の襷(たすき)を紡ぐ、いわば同志なのだ。
映画美学校には、そのことをとても重視したプログラムが設けられている。
脚本コース高等科の受講生全員が、アクターズコース高等科生たちをイメージキャストに、60分の中編シナリオを書くのだ。
書き手ひとりひとりが、演じ手ひとりひとりに眼差しを向け、筆を執り、役を書き、物語を紡いでゆく。
そこには、あなたのために書かれた、あなたにしか演じられない、あなただけの「役」が待っている。
そして、その脚本は実際にアクターズコース生たちの出演で映画化され、劇場公開される。
これからアクターズコースに入学されるあなたへ。
あなたを信じて、我々は「台詞」を書きます。
あなたを信じて、我々は「役」を託します。
あなたを信じて、我々は「俳優(あなた)」を待っています。
高橋洋(脚本コース主任講師/フィクション・コース講師)
これからの映画は「演出の映画」だと思う。
「演出の映画」とはつまり「俳優の映画」です。
映画はフィクションでありながら、俳優とスタッフのドキュメンタリーへとますます近づいてゆくと思う。
そこでは従来の俳優とスタッフの分業システムもすべて見直されるだろう。
当たり前じゃないやり方を人々は模索し始めるだろう。
これって実はかつて撮影所にあった「大部屋」に近いのですね。
無名の俳優とスタッフたちが入り乱れて、毎日毎日、映画を作っていた時代。
大部屋俳優たちが活躍の場を見出した映画って、決まって面白いのです。
僕の世代にとっては、『仮面の忍者・赤影』や『仁義なき戦い』なんだけど。
映画美学校では、アクターズ・コースの開講によって、それに近いことが起こりつつある。
第1期初等科の修了公演『カガクするココロ』の、あの風穴が開いたような解放感に、僕はそれを予感しました。