素敵に嘘をつくーアクターズ・コース公演を終えて(古澤健×松井周)
松井周がアクターズ・コース修了公演の演出を手がけるのは今回が3回目だ。いつも、俳優としての実感に立脚して、受講生たちにダメ出しをする。ダメ出しというか、提案をする。すぐ結果に表れなくても、根気強く。その様を、アクターズ・コース主任講師・古澤健はじっと見ていた。公演が終わり、松井にずっと聞きたかったことを、古澤がひも解き始める。
古澤 稽古を何度か拝見しましたけど、松井さんは忍耐強いですよね。松井さんも俳優なんだから、やってみせちゃえば早いのに!って思うことが多々あった。でも松井さんは絶対に、我慢強くダメ出しをするんですよ。
松井 はい。やってみせる、っていうのが、嫌ですね僕は。
古澤 演出家がやってみせてしまうと、それが「正解」として受け取られがちですからね。幅がなくなってしまう。
松井 その判断が自分でできる俳優さんに対してなら、自分の言ってることを伝えるために有効だと思うんですけど、それを理解していない人の前でいくらやっても、あまりいい効果がない気がしていて。でもよく言っていたのは、自分の「生理」を疑わないでいるのはもったいないよ、ということ。自分とは違うなあと思うような役でも、自分の中にそういう「回路」を見つければ、演じることができるんじゃないかと。例えば、嫌いな人を好きにならなきゃいけない時に、自分をそっちに持っていく「回路」さえ見つけてしまえば、意外とどうとでも改変できるなと思うんです。で、それは、演出家がやってみせても、あんまりヒントにならないんですよね。絶対触りたくない人にスキンシップしなきゃいけないシーンがあるとして、スキンシップしたくなる回路を俳優が自分で見つけてくれない限り、できないんじゃないかと思って。
古澤 少し話がそれますけど、舞台の上手と下手に、出番ではない俳優が座っていたじゃないですか。役でも本人でもない状態で。あれが、幽霊のように見えたんです。人なのか幽霊なのか、役なのかその人なのか判然としない存在。あれは意図的な演出ですか?
松井 そうですね。まったくの思いつきですけど(笑)。俳優は役を演じて初めて確定されるから、それ以外の時は「見られてはいるけど何だかよくわからない状態」としてそこにいるという。ある人の身体が、記憶で満たされた時に、その人の言葉をしゃべり出してしまう。それと似たことで言うなら、役なんだか幽霊なんだかよくわからない人が出てきて、言葉を語る時だけ「記憶」になって、控えの席では何だかよくわからない状態でいるっていうのが効果的かなと思いました。
古澤 正直、稽古と本番とでは、自分は勘違いしていたんだなと思ったんです。稽古中はとにかく、松井さんがノイズを増やそうとしているのかなと感じたんですね。あるせりふなり役柄なりを、俳優は自分なりに解釈するけど、それはまだ細くて痩せたものだから、それを豊かにするためにノイジーなものを増やそうとしているのかなと。でも本番を観たらそうじゃなくて、そもそもこの戯曲自体がものすごい情報量で、それを忠実にやろうとしているんだなということがわかって。
松井 たしかにそうかも。
古澤 物事や人物像を、ある程度観客が理解しやすいように整理整頓されたものがだいたい「物語」と呼ばれるじゃないですか。でも映画において、カメラは時として、こっちが意図しないものも勝手に撮ってしまうんですよね。だからものすごく注意を払って、観客の期を逸らさないように、なるべく1フレームの中の情報を整理整頓するように心がけるんだけど、それでもふと、空に浮かぶ雲に気を取られたりするんですよ。映画って情報量がものすごく濃い表現形態だなと思うんですが、今回は人間の処理能力を超えた情報がステージ上に上がってるなという感じがしました。
松井 松田正隆さんは、それを意図的に書いている気がします。この可能性がある、あの可能性もある、というのを確定できない状態で進んでいく。それを意地悪じゃなくて「豊かさ」として作っているんじゃないかな。
古澤 僕らは大人として、演劇とか映画とか表現に関わってきて、何かを解釈しようとすると非常に難しく考えちゃうけど、でも子ども同士って、あっちを指さして「見て!」って言われてそっちを見ると、「ちがうよ、指を見て!」みたいな遊びがあるじゃないですか。日常的なルールや規範の中では「あっち」を見ることが通常だけど、そうじゃない方向に視線を向ける。ズラす。そうやって子どもは、目に見えてるものを二重三重に見ているんですよね。大人になるとそういうことができなくなるから、演劇や映画や小説や、表現を通してたまにリハビリしないと、そういうものの見方ができなくなっちゃうのかなという気がして。
松井 本当にそう思います。今まで話してきたようなことを、コンセプチュアルに言っちゃうと、たぶんつまらないんですよ。けど演劇って、そういう嘘の重ね方をいくらでも面白くできる場所なんです。バスが来てなくても、来てるふうにできるし、部屋なんだけど部屋じゃないとか、布団じゃないけど布団があるように見せるとか、今回のみんなはそういうことを面白がってチャレンジしてくれたんですね。のびのびと遊んでくれた。情報量が多い分、どういうふうにでもやれる感じがあって、それはよかったなと思いますね。
素敵に嘘をつく
古澤 稽古の時松井さんは、「ベクトル」という言葉をよく使いますよね。言葉や思いが向けられる先とか、話す方向をちゃんと思い浮かべるようにと。そのせいもあるのかもしれないんですけど、本番の時に「街感」が見えたなと思ったんです。窓の外に海が見えて、道路があって、海があって、団地がある。町の起伏もちゃんと伝わってくる。あの狭い空間の中で、そういう広がりをきちんと感じられたのは、ひとつの達成だったんじゃないかなと。
松井 それはそうですね。あの狭い黒い空間の中で、どんな嘘をつくか。それは、俳優が自分の嘘で自分を乗せていくしかないんですよね。ごっこ遊びって、大人になるとなかなかできなくなるから、「別にここ海でもないし港でもないから無理っす」って言われても当たり前なんだけど、でもそれより、もっと素敵に嘘をついてほしいというか。もちろんそのことはわかるけど、それを超えたところで気が狂ってほしい。妄想をきちんと育てるということを、俳優だったらやってほしいなというのがあって。それをやらずに照れてたり、妄想が飛躍できないというのは、自分の感覚をまだ信じきれていないっていうことですよね。その遊び方が堂に入ってる人の方に、お客さんはついていくのになと思います。それが、最初はみんなできなかったけど、五感をヒントにして作っていくという感じがありました。
古澤 2回目を観終わって、ああすごく面白かったなって思ったんです。彼らの上手い下手を通り越して、「この作品何なんだろう?」ってことに観客の興味を向けられるところまで、作品を表現できていた。冷静に考えたら、みんな経歴がばらばらで、舞台経験がある人もない人もいるし、そのことが場合によっては仇になったりしうるわけですよね。演出家がいない時に「松井さんはこういうことを言おうとしてるんだよ!」って仕切りだす人がいたりして。
松井 そうですね。それは困ります。
古澤 そういう意味で、今回はある種の奇跡を感じるっていうか。松井さんがこの戯曲のために彼らをキャスティングしたわけじゃないから、演出家として越えなきゃいけないハードル、引き受けなきゃいけない条件というのがあったわけですよね。
松井 たぶんこれは奇跡というより、一人ひとりが普通に成長したんだろうなと思います。4人の講師が10回講義をして、常に何らかの宿題があって、それをこなしていくことで芽生えた自覚みたいなものがきっとある。キャスティングに関しても――自分で言うのも何だけどよくできてるなと思うけど(笑)――、役柄がハマっていたというのは、やっぱりみんなが合わせていったんだと思うんですよね。自分と役柄との接点を研究して努力しているのを感じたので、1年を通じてきちんと訓練して磨いてきたんだなという感じが、今はしています。
古澤 松井さんの演出家としての言葉を、俳優として受け取ってどう表現するか。それをきちんと訓練してきたからこそ、稽古場でコミュニケーションができた。
松井 そうですね。いろんな訓練をしてきているから、免許は早いうちから持っている。結構早いうちから、自分を乗りこなしている感じはしてましたね。今回の上演時間は2時間半もあったわけだけど。
古澤 この作品を選んだ時点で、松井さんって相当Sっ気があるんだなあって思いました(笑)。もちろん映画も、俳優の理解力とか、監督とのコミュニケーションも含めて、まだ完成していない、共通の幻想を一緒に支えなきゃいけないわけです。劇団公演とは違って、「今回この作品で一緒に共通の幻想を作れますか?」っていうところで、集まってもらってオーディションをしたりする。でも彼らはそのことに1年間もかけることができた。これは学校だからこその成長なのだという気がしますね。
松井 失敗していい場所だというのは、結構大きいと思います。もちろん僕も、速攻でできる人と、寝かせなきゃできない人と、いろんなタイプの俳優がいることは経験値として知っています。でも、ここは学校だから、それが許されるというか。
古澤 茶々を入れるようですけど、映画美学校でも松井さんは「失敗は許さないぞ!」っていう気迫を感じさせていましたよ(笑)。お前ら1年間やってきたんだからもう俳優だろう、と。ここで下手なことやったら、これまでの講師陣に恥をかかせるんだぞ!っていうくらいの緊張感があった。
松井 これは演出家によるとしか言いようがないんだけど、僕は役作りをあまりにもこれみよがしにされてしまうと、もういいや、って思っちゃうんです。
古澤 アフタートークで松井さんが、せりふや段取りは「点線で覚えてほしい」って言われましたよね。僕はそこに共感するんです。演劇でも映画でも、そこで描かれる出来事が、その瞬間に初めて生起したように見えることが一番大事。余計なことを考えてしまうと、動きとしてもせりふとしても「再現」にすぎない、死んだものになってしまう。だから演じる瞬間は全部取っ払って、もっと肉体が反応するように。本当は頭じゃなくて筋肉に、そういう記憶が行き渡っていればいいんですよね。
松井 俳優って、ある意味、免疫なしで黴菌の海に飛び込むようなところがあると思うんです。ある環境の中に、どっぷり浸かることを求められる。さっきまで黒だったものを今は白だと思え、というような。そういう変化に対応するためには、自分の普段のこととか、経験値の幅みたいなことを整理して、自分の体を使って表現できるための訓練を積んだ方がいい。自分の体を実験台にしつつ、ただの商品として使い捨てされないように、自分でメンテナンスできる場が、このアクターズ・コースなのだと言っちゃいたいと思います(笑)。きっと、王道はないと思います。だから考え続けるしかない。私とあなたは違う。でも近づくことはできるし、ある程度理解を交わすこともできるかもしれない。そういう可能性に対して、閉じずに物事を考えていく。そういうことを、これからもこの場所でできればなと思っているんですよ。
(2015/04/16 映画美学校にて)