『さらし者の自由』(松井周)
演劇の演出をしていると感じることの一つに、俳優のスイッチが入った時の面白さがあります。その時俳優はサーフィンをしているような自由を獲得しているんじゃないかと羨ましくなるのです。およそ一時間半の波乗り。これは、俳優が一人で気持ちよくなっている状態とは違うと思います。そうではなくて、環境(空間+人+モノ)を乗りこなすという意味です。環境を自分の側に引き寄せたり、環境の中に自分を放り出せるような自由さです。歩く、イスに座る、立つ、人に挨拶する、お辞儀するという一連の動作がとてもその場にふさわしいものであり、しかも一瞬でその登場人物の特徴が掴めるようなものになっているわけです。
私たちにとって日常生活は、波乗りとは違います。むしろ、いつも波に乗り切れない感じを引きずりながらぎこちなくコミュニケーションをしているといえます。会社では会社の、家族の中では家族の、一人でいるときは一人でいる時の、ある種の居心地の悪さを抱えながら暮らしているのではないでしょうか?そんなこと感じたことのないという人もいるでしょうが、少なくとも僕はそうなのです。
波乗れずの私たちは、はたして落ちこぼれなのかというとそういうことではなく、イスの座り方、箸の持ち方、挨拶の仕方などは習得しつつ、日々環境に馴染むようなアップデートを続けているわけです。つまり、ある程度練習すれば小さなことは自然と身につくこともあるわけです。会社なら会社の、家族の中では家族の「居心地の悪さを感じながら存在するふるまい」を行使しているという、いわば、居心地悪さの波を乗りこなすサーファーです。
だから、いってみれば皆、俳優です。日常生活でそのような居心地の悪さを感じている者しか見せられないサーフィンもあるわけです。つまり、そのように舞台上でふるまえば、水を得た魚状態になれるのでしょう。それはもう俳優が獲得した技術です。
けれど、いつも居心地の悪い役がまわってくるわけではないし、また現実とは違って、与えられた台詞を使うという制約の中である状態をあらわすのは結構難しいかもしれません。いや、でもそれは自転車に乗るように、技術を獲得することは可能だと思います。
ただ、ここまで書きながらも実は、俳優の魅力とは、それとは別のところにあるような気もします。それは「さらされる」という状態にあらわれると思うのです。うまく波乗りすることでも居心地悪く波乗りすることでもなく、環境に拒絶されたかのようにアクシデントに遭遇し(半分仕組まれたものでもいい)、頭のなかが真っ白になったかのように油断している人間が、全身の五感のセンサーをフル稼働しながら、次の行動へ一歩踏み出していく勇気というか、その行動の選択に俳優の「自由」を感じるのです。つまり、その綱渡りに観ている側は励まされると思います。ある現実を突きつけられて、絶句し狼狽したあの時の自分を重ねることができるのです。
松井周(劇作家・演出家・俳優・サンプル主宰)
96年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動と共に劇作・演出家としても活動を始める。07年、劇団サンプルを立ち上げ、10年、『自慢の息子』が第55回岸田國士戯曲賞を受賞。ニューヨークタイムズにて「日本における最も重要な演出家の一人」と評され、戯曲『カロリーの消費』はフランス語に翻訳されるなど海外でも注目が集まる。
また、劇団外の仕事として、さいたまゴールド・シアター(演出:蜷川幸雄)に戯曲『聖地』を書き下ろすほか、文芸誌に小説やエッセイを寄稿するなど活動の場をひろげている。四国学院大学非常勤講師。
松井周演出作品『蒲団と達磨』
2015年3月6日(金)~3月15日(日)全10公演
会場:KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ(神奈川県横浜市)
作:岩松了
演出:松井周
http://samplenet.org/2014/12/24/futontodaruma/
アクターズ・コース第4回公演『石のような水』
2015年4月10日(金)〜4月12日(日)全5公演
会場:アトリエ春風舎
作:松田正隆(マレビトの会代表)
演出:松井周
http://eigabigakkou.com/news/info/3931/