フィクション・コース第一期生であり、在籍中は黒沢清さん、高橋洋さん、塩田明彦さん、青山真治さんなどに学んだ大九明子さん。1999年、高等科修了作品『意外と死なない』が劇場公開され、監督としての第一歩を踏み出されました。
最新作『甘いお酒でうがい』が9月25日(金)に劇場公開、また、今冬『私をくいとめて』の全国劇場公開も控えています。今なお精力的に映画作りを続ける大九さんに、映画美学校時代のこと、受講を検討される方へのメッセージなど多岐にわたってお話いただきました。

MA_AMG_2479注)『私をくいとめて』撮影風景1

—映画美学校に入学した経緯を教えていただけますか?

大九 26とか27歳とかだったと思いますけど、映画館を巡るといいますか、映画館が人並みに好きで。見て回ってる時に、行く先々でチラシを目にしていて。「映画技術美学講座 1期生募集※」(※現フィクション・コース初等科)というチラシを見て、なんかずっと引っかかっていて、なんとなく応募したというような。‥‥なんとなく、でしたね。「監督になるのだ」とかそういう確固たる気持ちは全くなくて、一映画ファンとしてなんとなく、でした。

—その頃、仕事は普通にされてましたか?

大九 収入源は100%フリーターです。アルバイトで。ただ、自負としてはお笑い芸人を目指して、コント集団に属してみたり、一人コントをしたり、普通のお芝居をやってみたり。色々、そういうことをしておりました。

—「なんとなく」ということは、まだどうするとかどうなるとかを決めているわけでもなかった、ということですよね。

大九 まずはどういう人が監督になっていくのかな、とか、そういうのを見てみたい感じがしたんですよね。カリキュラムで「Four Fresh!」だったっけ。4本の映画を最後、1年経った時に撮ります、というのがあって。ということは4人監督を選出するんだな、と思って。それを傍で見てみたいな、とか思ってたんですよね。

—じゃあ、撮る側になるというよりは、傍で見てみたいな、ということのほうが。

大九 そうですね。あと、その頃はネタを作るとか、そういうことばっかり考えている時期だったので。映画を撮りたい人たちの近くにいることで、何か刺激を受けられるかもとか、そういうのも思ってましたね。

—自分が生きてきた中で、表現の選択肢というのが色々あるじゃないですか、音楽でもなんでも。お笑いはもちろんあるとして、映画っていうのは結構大きかったんですか?

大九 まず単純に映画館に行くことが癒しというか。昼間不本意な気持ちでアルバイトをしていたとしても、今夜文芸坐のレイトショーに行くんだー、とかそういうことが心の支えになっていたりとか、まあそんなようなことだったり。単純に高校生くらいからかな、映画館に通い始めたのは。中学生くらいまでは見たい映画があったときに、友達と一緒に4・5人で見に行くっていうようなことがあったりはしたけど、一人で見るようになったのは高校生になってからですね。

—他のところでも色々語っていると思うんですけど。20代前半の頃とかは、お笑いでやっていこう、というのがあったんですよね。

大九 そうですね、やっていこうというより、自信もないし、不安しかないけど、とにかくがむしゃらになんか作ってたくて、それでコントを作るとか。一人コントって、自分で作って自分で演じてっていうことは、演出もして、全部一人で完成するんで、コミュニケーション能力があまり高くなかった私のような者でも、面白いと思うことを独善的に突き進めることができるなという自由さも感じてたんですけど。
ただ、ずっとネタを作り続けてコンスタントにネタ見せに行き続けるっていうことが、本当に日本中の面白い人たちがいっぱいいる中でめちゃめちゃヘビーで。自分の能力のなさを痛感している20代っていう感じだったんですよね。そっちでうまくいかないと、「私は映画を見に行くっていうガス抜きがあるし」とか、そういう逃げみたいなところもあったりもしましたね。お笑いの先輩たちが当時あんまり映画好きな人とかいなかったんで、私が見てきた映画の話とかすると、ちょっと一目置かれるとかいうのもあったんで。映画好きでお笑いを目指しているっていうことが、お笑いのグループの中では一つ武器みたいなところもあったのかもしれないですけど。まあでも、そんな武器とかそんなこと真剣に考えてなくて、必死でとにかく息吸いに行ってたって感じです。

注)『私をくいとめて』撮影風景2

—映画美学校に実際入ってみて、どんな印象でした?

大九 うーん、どうなんでしょう。‥‥‥私、割と冷めてましたね、そういう意味では。なんかみんな熱くなっちゃって、みたいな。今は映画美学校の受講生の平均年齢ってどれくらいか存じ上げないですけど、私27だったのに結構高齢者だったんですよね。そうだったよね?大学生周辺の人がすごく多かったんで。20代のみなさんは自覚おありだと思いますけど、27と23ってすごい差なんですよね。

—そうですね(笑)。

大九 43と47なんてまるでおんなじなんですけど。20代の時ってそこの差がすごく大きくて。私もだからそういう3つとか4つしか変わらない下の世代の人たちを、すごく冷めた目で見てたし、向こうも私のこと年寄りと思っていただろうし。そういう微妙なジェネレーションギャップを感じたりする時もありました。もっと上の人、極端に上の人もいたよね。30代後半とか、

—50代の方もいましたね。

大九 50代の方もね、現役でどこかでディレクターなさっている方も来てたりとか、色んな方いらっしゃったけど。コアなメインストリームを走ってるのはあれだったよね、大学出たての。

—講義は当時どうでしたか?

大九 あ、講義はすごい楽しくて。毎回本当新鮮だったし、当時の講義は我々アテネ・フランセ(文化センター)でさせていただけてたんで。素敵な劇場で、5階まで息を切らせてハァハァ登って行って、入ると今度はなだらかな階段をターン、ターン、ターンって降りていって、なるべく前の方で聞こう、とか。
あの感じ良かったんだよな。5階まで到着したら、ご褒美のようになだらかな階段‥‥あれ良くない?劇場の。ハァーと思って、どすっ、と座って。さて今日は何が体験できるのかな、と思ってたら普段見られないようなものをフィルムで見せてくれたり。毎回すごく楽しかったです。

—あの頃はさっき言ったように4本選ばれて作品を撮る、っていうのでそれに向けてシナリオ開発が主でしたよね。実際に作品を撮るのって、課題が初めてだったんですか?

大九 そうですね。カメラは持ってましたけど。色々悶々とした青春を送っている中で、何か作りたいっていってもネタが作れない、作ってる気分を味わえるっていうこともあったのかもしれない。DV1(GR-DV1っていうビクターから当時出たパスポートサイズみたいなカメラでさ。あれいいんだよね、普通の8ミリカメラみたいにガシャッて開けて撮る形の昔のデジタルビデオカメラで。まずそのデザインに惚れてローンで買ったんですよ。それを持って色んなものを撮って、自分で遊びで編集っていうことはしてたけど、映画の作品っていうようなことを意識して作っては全くなかったんで。映画美学校に入って初めて、16ミリで、まあNO編集ではあるけど一つ、30秒の作品を撮りなさいって言われたのが初めて映画を作り出した瞬間でしたね(※当時撮影実習は16ミリフィルムで行われていた)。映画っていっちゃ申し訳ないけどね。

 

—どうやってお話考えるっていうのは悩みましたか?それともコントの経験があったからポンポンいけましたか?

大九 今思うと、コント(の経験)があるから何か面白がらせようということをすごく考えちゃって、そこに囚われちゃって。壮大な物語を考えちゃいがちでしたね。映画美学校の修了制作でしたり、色んな若い方の作品を拝見するときに、すごい壮大な世界観を打ち出しちゃう人がいて。まず自分の身の丈に合ってないことをやろうとしちゃう、みたいな。私もそんな感じで、近未来の話とかを考えたりしちゃって。それをどう実現すればいいかばっかり考えちゃってましたね。

—何本か撮っていくうちにそれが変化していったんじゃないですかね?なんかそういうイメージがありますけど。

大九 同級生たち、他の人たちが提出しているものを見て、正直「あ、なんだ、これでいいんだ」って思ったんです。普通の家族の会話を撮ったようなものだったり、彼氏彼女を撮ってたり。あ、レオス・カラックスが来た時言ってたよね。病気の子供みたいな感じでさ、ずっとうつむいてタバコ吸いながら講義してたけど、「君たちは、まず恋人を撮りなさい」みたいなこと言ってたじゃん(笑)。なんか、マジで本当にそういうことに気づけてなくて、私は。そういうことが面白いのだ、ということに。で、同級生のみんなが家族や、そういうふうに身近なもので素晴らしく面白いものを撮ってるのを見て、「あ、なんだ、これでいいんだ」と。一気にシフトチェンジしたというか、エンジンがかかった感じでしたね。知らず知らず作ることに欲が湧いてきてたっていうか。

—これは自分の実感ですけど、1年目初等科の後半から‥‥‥なんていうんですかね、大九さんの路線がリアル路線に入っていった感じが。

大九 あっ本当?覚えてくれてんだ。そうかもしれないね。

—歯磨きのシーンが印象的な、あのビデオ課題とかも。

大九 あー、はいはい、あれ高等科じゃないかな。

—大きく言うと(初等科・高等科の)2年の中で変わったことなのかもしれないですけど。

大九 そうかもしれないですね。

—大九さんは2年目(高等科)も行かれたわけですよね。2年目いくと決めたのって何か(理由が)あります?

大九 いや、安井(豊作)さんが電話くれたから(笑)。

—そのとき、事務局長の。

大九 そうです。(初等科の)入学の時もそうだったんですよね。とりあえず応募してみたら合格通知が来て。どうせ全員合格だと思ってたから、合格通知が来たってことで一回自分の中で終わってたんですけど。「事務局の安井です」とご連絡頂戴して、「合格を断るなら別の方を補欠入学させたいので、どうしますか」って打診がきたんですよ。「ええっ!?」と思って。補欠とかいうほどそんな倍率だったんですか、と急に惜しくなってきて。「ちょっと考えます」みたいな感じで。で、行くことに決めて、初等科にまず入り。高等科行く時も割とみんな「どうするう?」って感じはあったけど、すぐにパーンと「行くよ!」とか言った人は少なかったよね。皆なんかこう横ちらちら「どうすんの?」みたいな感じで。まあ人脈できたし、もういいんじゃないかなっていうところが私の中にはあったんですけど、安井さんが電話くださって、「来た方がいい」って。なんか根拠のないご説明だったような気がしますけど(笑)。「来た方がいい」って再三言ってくださるんで、「じゃあ行こうかな」っていう感じで。

—その後にもつながっていく、大九さんが実際に中編を撮ったのも高等科ですよね。

大九 あれね。修了制作というわけでもなく、高等科の中で2班に分かれて、1本ずつ実習として撮るのでシナリオを書いてきなさい、みたいな課題でしたよね。

—一晩でバーっと書いたみたいなことを言って。

大九 そうですね‥‥‥なんでしょう、よく飲みに行っちゃってたじゃないですか。だらだらしちゃって。居酒屋の「天狗」とかさ、そういうとこに。その日も何かの講義の後で筒井(武文)さん‥‥‥筒井さんがよく連れて行ってくださったんですよね。筒井さんが「行こう行こう」って言ってくださるんで、じゃあお言葉に甘えてって言ってよくご馳走になったり。
そんな中、またその時も結構な人数で、20人とかで行ってたのかな。そしたら「君たちは明日の締め切りのシナリオは書いたのかね」って筒井さんが言った時に、ほぼ書いてなかったんだよね、皆。「いや〜」なんつって。そんなところにだらだら飲みに行くような人たちは多分落ちこぼれの集団なんでしょうね(笑)。そんな中で「いや〜書いてないです、あっはっは」なんて言ってたら、「よかった、僕読む量が少ない方が審査が楽だから」とか言われて、「は?」ってなって。で、その日帰ってなんとなくアイディアはあったんで、とりあえずバーって書いちゃおうと思って一気に書いた感じですね。そんなにページ数もないし。まず第1稿は本当にバーっとおしりまで一気にやって、っていう感じでしたけど。

—じゃあ筒井さんが軽口を叩かなかったら‥‥‥

大九 (笑)。そうですね、本当に。それで奇しくも選んでいただけたわけで、そのシナリオを。選んでいただけてなかったら、きちんと前向きに取り組む姿勢がまだできてなかったから、今映画を作ることをしていたかどうか不明ですね。本当に感謝しておりますけど。映画美学校さん、ならびに筒井さんには。

—『意外と死なない』という中編ですけれども。これの思い出話をすると山のように出てくるので。(※インタビュアーは同期で現事務局の市沢)

大九 ね。市沢くんは「撮影監督」。撮影監督って肩書きにしちゃってね。みんな手探りだもんね、一期生。私が監督ではあるけど、自分も出たりしてたから。

—大九さんが監督・主演だったんだよね。だから…

大九 スタート、カットを市沢くんがかけると。ってことは、そういうのをやるのが撮影監督って言うんじゃないのー?って素人集団が分かってないまま「おお、そうなんじゃない?」なんて言って。「肩書き、撮影監督だね」とか言ってね。

—全く違いますよね。

大九 からかわれましたよね、散々ね。色んな講師の方に。映画美学校唯一の撮影監督だ、なんて言って(笑)。

注)『私をくいとめて』撮影風景3

 —そこでまとまった長いものを作って、ある種やっぱ実感があったんですかね。映画を撮るということの。

大九 まずシナリオが選ばれた時に、本当にどうしよう、と。すごくふわふわっとしてたのが一気に追い詰められた感じで。「あ、決断する瞬間がついにきてしまった」っていうか。すごく悩みましたけど、映画を撮らせていただける機会なんてこの先二度とないだろうから、もうがむしゃらにやりたいと思うこと全部詰め込んでやろうと決めて、「やらせてください」というふうにお答えしましたけど。あれじゃないですか。我々の期でもありましたけど、様々なタイミングで作品が選ばれて「あなた撮ってください」っていうふうに言われるチャンスを得た人も、結局撮らないで終わってしまうパターンあるじゃないですか。やっぱり実際実行するって、すごいエネルギーなんですよね。やったことがないことを始めるから、本当怖かったし。だけど、やってほしいですね。選ばれた人は、皆さん。チャンスです。

—当時は当時なりに大変だったんですけど、作品はできて。あの時は上映もユーロスペースで。

大九 本当ですよね。すごく恵まれて。一期生という立場、私ども大変恵まれてましたよね。

—そのことから仕事につながっていったといっていいんですかね。

大九 そうですね、はい。あの作品を見たという方が色々映画業界にもいらっしゃって。その後、7・8年の間はそのご縁でお話をいただくみたいなことが続きましたから。やはり作り手にとって一つ作品を持っておくというのは、大変な‥‥‥なんていうんでしょうね、武器というと、あまり映画を武器という言い方はしたくないですけど。その先作っていくためには第一歩が必要だから、あれは本当に怖気ついて断らずにやっといてよかったな、と思います。

—長編の第1作もそうでしたよね。

大九 『意外と死なない』が人生で最初で最後の映画だって思ってそこそこ満足はしてたんですよ。ただやっぱり、何かしら作ってたいっていうのがあるんで。一人コントの方は完全に情熱を失っていたというか、もっと面白い人たちがいっぱいいて、敗北感でいっぱいで。お笑いの番組とかテレビを一切見れない10年間くらいがあって。でもなんか作りたいって思ってる時に、『意外と死なない』を見たっていうご縁から、色々なツテができて。
ものを書く仕事とか、作詞をする仕事とか、海外のアニメにナレーションをつける仕事とか、そういったものの執筆の仕事をちょこちょこやらせてもらってて。次もっと面白い仕事がくるといいなーと思いながら、細々とそういった、作るということをなんとなくしていた中で‥‥‥2005年とかか。映画美学校修了してから5年くらい経ってからかな。映画美学校開校時に関わっていたプロデューサーの松田広子さん(※現オフィス・シロウズプロデューサー)が長編のお仕事の連絡をくださって。それが長編劇場初作品になったんですけど。

—ここ(映画美学校)を出た後どうなるんだろう、というのはあったんですか?いろいろな形があると思うんですけど。

大九 千差万別だと思いますけどね。私はただ、平気な顔しながらずっと悶々と苦しんでただけですけど。もっと作る仕事をどんどんし続けたいよなあ、と思ってて。なんか、うん、本当悶々としてましたね。

—執筆などの細かい仕事をしているときも。

大九 一つ一つはそれなりに達成感があったり、楽しさがあったりするんだけど。「これ、どれくらい続くんだろう」と思っていて。その時、30代前半ですよね。もうちょっと生きるだろうから、その間、自分の生業というか職業というか、私って何をして生きていく人になるのかなっていう漠然とした不安がずーっとあって。でも何か、作ってないと不安で。で、映画美学校の同期だった人たちと集まって、たまに自主映画を撮ったりもしてたんですけど。

—只中にいる時って、別にその結果が出ているわけじゃないから。もがいているというか‥‥ただ作っていたんですよね。それでもね

大九 そうですね、なんか、作ってましたね。作ってないとやってらんないっていうか、気を紛らわせるためみたいなところもありましたね。作ってないと本当にやってらんなかったですね。

 

—最初の長編があって、何本か(仕事を)もらうようになって、作るようになって、今に至るという感じですかね。そこから先で変わっていったようなところってありますか?

大九 (長編)一本目が2007年に公開になった、松田広子さんがプロデュースしてくださった『恋するマドリ』っていう作品なんですけど。そこから2本目の『東京無印女子物語』まで5年くらいは空いてたんじゃない?その間の苦しみはその前までの苦しみとはまた違う苦しみで。1本長編を撮った、そしてそれが一応商業映画として公開されたっていうことで、もう「映画監督」として大変光栄なことですけど周りが見てくださって。自分もどっか焦りがあって。映画監督って言われてるのに、(長編作品が)1個しかない、とか。『意外と死なない』含めて2本しかない、そんなことでいいのかっていう不安がずっとあって。お話はいっぱいくださるんです、色んなプロデューサーさんが現れて「なんか企画考えましょう」って。当時書いてそのままになってるシナリオも大量にありますし。オリジナルから原作モノまで。
とにかくね、その前までの悶々とはまた違う悶々が。こっちの方がしんどかったかもしれないですね。もう他のことできないのに、っていう感じがあって。もう歳も歳だったし。30代後半に入ってましたから。なんかとにかく、もう一本映画撮んなきゃ撮んなきゃ撮んなきゃ、長編撮んなきゃっていう思いがすごくありましたね。‥‥何やってたっけかな、でもその間短編とかはやったりしてたのかな。あっ、『(怪談)新耳袋』とか。篠崎誠さんが。これはやっぱり映画美学校の人脈ですけど、(ご縁を)頂戴して撮らせていただいたりとかしてたかな。ま、そんな感じで短編みたいなことはちょこまかさせていただいてたんですけど。なかなか劇場公開になる映画に触る機会ってのがなくて。着地しなくて、色んなことが。大変でしたね。大変っていうか、しんどかったですね。

—1作目撮った後の人って、みんなそんな感じなんですかね、もしかしたら。

大九 みんなそうだと思いますよ、本当に。もう焦りと、不安と‥‥‥なんだろうな、商業映画界に限って言うと、映画界ってそれだけじゃないから。商業映画界に限って言うと、まずプロデューサーが、お金を集める人が次どういう映画を作ろうかっていうことを想起して、どの監督とやろうかって動き出すわけですけれども。そのプロデューサーが知ってくれてないんですよ、一本撮ったくらいじゃ、まだまだ。だから映画美学校人脈とか、2本目の『東京無印女子物語』を撮るまでの間は「『恋するマドリ』を見て大九さんとやりたいんですけど」っていうよりは「『恋するマドリ』と『意外と死なない』っていう映画美学校のあの謎の作品、僕見てるんですよ」っていうコアな、変わったプロデューサーさんがお声がけくれて、っていうことはあったんですけど。なかなかしんどくて。着地しなくて大変でしたね。
自分発信で「これを映画にしたい」って持って回って、色んなプロデューサー、お金を出資してくれる人とかに営業するっていうやり方をしてなかったので。ひたすら待ちの姿勢で辛いなーって思いながら。話をくれると「喜んで!」って「あっ、これこれこういった内容ですか、分かりました、じゃあ書いてみます」ってやるんだけど、着地しなくて。着地しかかってもスレッスレのところでダメになったりとかね。色んなことがありますよ、色んなことが。言えないことが。言えないことって悪いことじゃないんですけど、もう主演も決まってて、周りも決まってて、クランクインもほぼ決まってたのに、ちょっとその委員会の一箇所が欠けただけで撮れなくなるとか。そんなことを抱えている監督はいっぱいいると思います。
ただ、だから、一つはっきりいえるのは、やっぱり作品があるに越したことはなくて。まず1本『意外と死なない』があったから2本目につながり、2本目と3本目の時も、1本目と2本目を見てくれたプロデューサーだったんですよね。『東京無印女子物語』のプロデューサーは。まず1本だと点で、2本だと線で、3本になると面になってくるから色んな人の目に触れて、だんだん声がかかる回数が増えてきたみたいなことで。私の考え方は、ですけどね。作品はなるべく撮れる時に撮った方がいいな、と。選り好みせず。きた話をどう自分風味に味付けするかっていうことを聡く考えながら、断らずにそれを自分のものにしていくほうがいいんじゃないかなと思いますね。

—前に言ってましたもんね、短編でもいいから撮った人は、見てもらう工夫をどんどんしていったほうがいいって。

大九 はい、今本当にスマホでも撮れるんだし。どういう作品世界を撮りたいって思ってる人間なのかを分かってもらうって意味でも。例えばプロデューサーが「コメディーの人で面白いもの撮れる人、フレッシュな人と組みたいんだよな」って思ってる時に、「この間見せてくれたあの自主映画作家さん、あれ面白かったなー」と思えば、動いてくれるから。声をかけてくれると思いますから。あ、悪い人もいるんでね。騙されないでね。全部自分で撮って、それを持ってこい、とか。お金一切出さないとか。そういうのは気をつけてください。

—プロデューサーは意外とフレッシュな方を求めているっていうのがあるんですかね。

大九 もちろんです。色んなパターンの方いらっしゃいますけど。数字数字って言って数字の保証が欲しい人もいれば、ご自身の感覚で「この人と組んでみたいと思ったんだ」ってことを大事になさっている方も多いし。幸い私が今までご一緒してきたプロデューサーの皆様は、ご自身の嗅覚で私に寄ってきてくださる方たちで。『勝手にふるえてろ』、『でーれーガールズ』の2作品をご一緒したプロデューサーは『恋するマドリ』の時、当時まだ高校生だったんですよね。四国のご実家の、愛媛でご覧になって、それですごく好きでいてくれて。
で、ご自身がプロデューサーになった時、初プロデュース作品として『でーれーガールズ』の原作を持って、私の前にポンッと突然現れて。「大九さんとやりたいです」って言ってくれて。『でーれーガールズ』は2015年か、2015年ってことは『恋するマドリ』からもう既に8年以上経って、それを見たんですって言ったプロデューサーさんが現れて。しかも当時少女だった方が大人になって、「大九さんと一緒に映画をやりたいんだ」って言ってくれて。手をつねって泣くのを我慢しましたね。初めて会った時。もうめっちゃ嬉しくて。なんだろう?と思って。天使かな?と思いましたね。

—映画ってそういう複製物で、自分の預かり知らないところで感動している人がいるってありますよね。

大九 本当にそうですね。だから撮っといたほうがいいんですよ。

—縁がつながっていっている、っていうのはいつもすごく思うんですけどね。始まりはやはり、結局撮って形に残したっていうことだと思うんですけど。

大九 そうですね、本当に。映画美学校さんのおかげですね。

—そんな、いいですよ(笑)。フィクション・コースの受講を検討されている方にメッセージ、というのもちょっとお伺いしたかったんですが、撮るっていうことがそれに近いことになるんですかね。

大九 そうですね。チャンスがあれば、撮りましょう。それがメッセージってことで。

—大九さんはそれを体現してると思うんですよね。最初からものすごい欲望があって、映画監督になるんだって人ももちろんいますけど、映画美学校に入ってから考え始める人のほうが多いと思うんですよね。多分そこで得たチャンスに対して全力で向き合うことが、つながっていくって感じですよね。

大九 うん。背中を押されたら飛び出そうって感じですね。

—そこが学校の役割というか。「一人でも撮るんだ」っていう感じで、そんなみんなゼロから考えられるわけでもなかったりするんで。

大九 そりゃそうですよ。積極的に自分から書いて人を集めてマメに撮ってる同期もいましたけど。自分は決してそういう積極性がある人間ではなかったから。本当に、「断らなかった」っていうことが最大の成し遂げたこと、というか。

—断らなかったこと。

大九 そうそうそう(笑)。

注)『私をくいとめて』撮影風景4

—どうですかね、コロナ禍になって、周りでも自分でも何か変わったことってあります?

大九 めちゃくちゃあります。4月10日公開予定だった『甘いお酒でうがい』が未だもって公開延期という状態が続いています。(※インタビュー時点。現在は9月25日からの公開が決定している)。まず公開作品が影響を受けたっていうことと。あと、実は『私をくいとめて』を撮影中だったのですが、緊急事態宣言で撮影を中断してます。(※インタビュー時点。現在はクランクアップしている)。なので、映画という事象だけでもでっかくこの2個が影響を受けましたね。公開延期と撮影中断と。同時に食らってる人はなかなかいないんじゃない。

ーちょうど公開も控えつつ、撮影もしていたんだ。

大九 そうなのよ。すっごい私、普段の天気運とかめちゃくちゃ悪いの。とにかく普段の生活ですごく天気運悪いのに、撮影の天気運めちゃくちゃいいのね。怖いくらいいいの。この1カットだけ降らないでいてほしいっていうときにぴたっと止んだりとか、そういうことがずっと続いてるんで。そのしっぺ返しのように、このコロナ禍に入った途端ダブルパンチを食らったかな、みたいな思いはありますが。
ただ、幸いにして現場中もずっと日々情報が色々変わっていく中で、毎日集合するとプロデューサーが全員の体温測って、ということからスタートして、毎日緊張感のある中で撮影していたけど、誰一人コロナウィルスに侵されることがないまま撮影を一旦お休み、っていう形を迎えることはできたんで。そこはひとつ中断という判断はよかったな、と思いますけど。何かを危険に晒してまでやることじゃないんですよ。映画を撮影するなんて。命を危険に晒してまでやることでは決してないと思うんで。

—プラス、今テレビ(ドラマ)が放映してるんですもんね。(※6/23段階)

大九 あっそうなんですよ!。DVDが出る予定ですが、『捨ててよ、安達さん。』っていう、安達祐実さんが安達祐実さん役をやるシュールな連ドラが今10話まで放送が終わってるところです。あと2話。

—じゃあ公開延期と撮影中断と、それも重なってますよね、そうするとね。

大九 そうですね。テレビ(ドラマ)は昨年末に撮影終了してたので、何の影響もなくオンエアはされてますけど。

—何人かと話を聞くと、映画の人はタフだなって感じがしますね。忙しくしてる人ほど「やるぞ!」って言ってる気がして。

大九 そうですか?「やらないぞ!」って言ってる人は誰ですか?

—いやいや、「やらないぞ!」って言ってる人は逆にいなくて。むしろ若い人たちのほうが漠然と「どうするんだろうか」って思っているように見えて。ちょっと偏見かもしれないですけど。むしろすごい忙しくやってる人の方が「今だからこそ」と熱く言ってくれてる、それにまた励まされるところもあったな、とか思ったんですけど。

大九 リモートムービーとか?

—(受講生に向けての)コメントをいただこうと思って、安里(麻里)さんと連絡をとった時も、逆に今色々なことが変わっていい機会かもしれない、ということを言っていて。そうか、こういうふうにタフに考えられる人もいるんだなと思ったんですね。価値観が変わっていくから、インディペンデントの人たちのほうがむしろ上がっていくチャンスかもしれない、と言っていて。

大九 それはそうですよね。家で映画を楽しめるっていうことを分かってしまったから、皆。大きな資本がなくても、作ったものを世界的にYouTubeとかで見ていただく機会ができた。面白いものを撮れば見ていただけるってことはあったかもしれないですね。私も映画を作る時って、映画館で見ていただくことしか考えないで、本打ち(合わせ)とかで「でもテレビで後々見る人たちのためには」みたいなことを誰かが言おうものなら、「そんなことを考えて脚本は書きません」とかって偉そうに言っちゃったりして。とにかく映画館で見てもらうためにしか、音響の構成も、色作りも考えてなかったけど。今回世界中の国際映画祭が「We Are One:A Global Film Festival」ってことで配信の映画祭をやったんですよね。
で、各地で映画を数本出し合うって中で、東京国際映画祭側から『勝手にふるえてろ』を選んでいただいて、世界中でフリーでYouTubeで見られるっていう状態が1週間くらいあったんですけど。その時にTwitterでいろんな言語の方がコメントをくださって。それをGoogleで「こういうこと言ってくれてるんだ」って一生懸命翻訳して、返事出したりしたんだけど。世界配信するっていうことはこういう喜びがあるんだと思って。家で見ていただくっていうことの広がりをすごく私も実感したんで、今後は作るものにも影響されるかもしれないって気はしてます。

 

2020/06/23 インタビュー:市沢真吾 構成:浅田麻衣

プロフィール

大九明子(OHKU Akiko)
横浜生まれ。明治大学政治経済学部政治学科卒業。映画美学校第一期生。在籍中は黒沢清、高橋洋、塩田明彦、青山真治などに学ぶ。1999年、高等科修了作品『意外と死なない』が劇場公開される。2007年、新垣結衣の映画初主演作『恋するマドリ』で商業映画デビュー。以降、『東京無印女子物語』、『ただいま、ジャクリーン』、『モンスター』、『放課後ロスト/倍音』、『でーれーガールズ』、『渚の恋人たち』、『美人が婚活してみたら』。TVドラマ『時効警察はじめました』、『捨ててよ、安達さん。』など。2017年、『勝手にふるえてろ』では、第30回東京国際映画祭コンペティション部門観客賞、第27回日本映画プロフェッショナル大賞作品賞を受賞。新作『甘いお酒でうがい』が2020年9月25日、最新作『私をくいとめて』が2020年冬公開予定。