プロフィール
脚本コース第4期高等科修了生

感化された部分がありました

映画美学校に入る前は映画に関わったこともなく、脚本を書いたこともありませんでした。元々自分が映画を撮りたいとか、作る側になりたい、という考えは全くなかったです。でも映画館でバイトをしていたので、そこに映画を作っている人や役者をやっている人、それこそ映画美学校出身の人もいたから、それに感化されていった部分がありました。
まわりに作っている人たちがいて、何となく監督の名前や脚本家の名前で作品を見るようになりはじめて、それで脚本家の名前とかを何となく覚えていって。好きなドラマに共通して同じ人の名前が出てきたりするようになって「あっ、この人、好きなんだな」と思ったり。脚本家の坂元裕二さんとか古沢良太さんとか、はじめはテレビの人でしたね。

正直に言うと、クラス講師の高橋泉さんのことを知らなかったんです(笑)

映画美学校に通うきっかけはチラシですね。映画館にチラシが色々あって、仕事でそれを整理している時に映画美学校のチラシを見て、そこに共通講義の講師に坂元裕二さんの名前があったので「坂元さん! 知ってる! 行ってみよう」って。
仕事の都合で昼クラスを選んだのですが、最初は正直に言うと、クラス講師の高橋泉さんのことを知らなかったんです(笑)。でもまわりの人たちはみんな知っていて「え!? 知らないの? 高橋泉さんに教えてもらうなんて凄いじゃん!」って言われました(笑)。まわりが自主映画もよく観る人たちだから知っていたのかな。

「柱」が何かも知らなかった

映画美学校は「初心者大歓迎!」みたいな感じじゃないですか。だから経験がないこととか映画をあまり観ていないということでハンデはなかったし、講師も同期もそういうことは問題なく受け入れてくれましたけど、私の期は大学の映研とかで自主映画を撮っていた人とか、もう脚本を書いたことがある人とか、役者さんだとか、そういう方が結構いたんです。私はその時「柱(※脚本上でシーンの場所などを提示する部分)」が何かも知らなかった。それで焦ったから脚本を読み漁りました。「これはマズい…マジでやらないとついていけない…」って(笑)。でも勉強するのが楽しかったです。
撮影実習で自分の脚本が選ばれて(※第4期初等科前期昼クラスでは、クラス内投票で3本の脚本を選出し、それを短編映画にする実習があった)、その時に「もしかしたら頑張ったらちょっといけるのかな…」と思えるようになりました。あれが選ばれていなかったら、どこかで心が折れていたかもしれないけど…(笑)。 本当に嬉しかったですね。

書いて終わりだったものが実際に「立ち上がる」感じ

脚本家のなり方も何も分からなかったからなりたいと思うことすらなかったんですけど、もう半年くらいやったあたりから「なりたい」と思ったので、映画美学校ではないのですが、同時期に他の所で映画を撮ることも学びはじめたんです。撮影実習で自分が監督をした経験があったからでもあるのですが、「撮る人の気持ちが分からないと、脚本も書けないな」と思って。それも撮る人になりたいと思ったのではなく、単純に全然分からなかったから、一回やってみたいな、と。
あとは撮影実習で自分の書いたセリフが実際に読まれるのが面白かった。特に、書いて終わりだったものが実際に「立ち上がる」感じが。今はもう撮影実習で撮った作品は恥ずかしくて観られないですけど(笑)、「凄い体験をしているな」と興奮した思い出があります。それからは脚本中心に生活も変えていったし、一秒もヒマな時間がなかったです。本当に大変だった(笑)。

「熱」をもらいに来ていた

最初の泉さんの講義で「自分が体験した衝撃的な出来事」というお題で脚本のネタ出しをやったんです。その時は企画書が何かも分からなかったし、泉さんもそういう形式的なことは全く求めてはいなかったのですけど、あまりにも素直に書いちゃって(笑)。お話に出来ることと、単純にそう思ったこととは違うんだな、というのを学びました。理論立てたものなど座学的な講義を想像していたのですが、泉さんの講義はどんどん実践的にネタを出したり書いたりすることが多くて「あっ、こういう感じなんだ」とビックリはしましたけど、教科書に書いていないことを教えてくれました。
最初は何も分からないから教科書的なことを教えてほしかったのですけど「書いてきて」と急に言われて「え…段落ってどうやって分けるの…ここは字を下げるの…?」とか全然分からなくて、TA(ティーチングアシスタント)の方が補足で教えてくれたりしました(笑)。だから、教室に座りに来ているというよりは「熱」をもらいに来ていました。「脚本家の生の声」というか「現場の声」を聞きに。やっぱり泉さんに褒めてもらいたくてずっとやっていたようなところがあります。

後々その経験が自分の脚本を書く時に生きてきた

そういう講義の中で泉さんが言っていた「漠然としたこと」「頭に入りきらなかったこと」を共通講義で解決していました。高橋洋さんは「言語化」が上手いので、パッと何かを言ってくれた時に「あっ! そういうことか!」という感じでスッと頭に入ったりしました。坂元さんの講義は全部覚えていますね。会話の書き方の講義で「Aが言ったことにBがそのまま答えて=応えても面白くない」というのを言っていって。Bが「へぇ、そうなんだ。でさ…」みたいに全然違うことで続けた方が、お話が転がっていくみたいなことを教えてくれて、それから私も意識的にその方法を取り入れています。
尾崎将也さんの講義では「逆バコ(※映画やドラマが制作される順番とは逆に、完成された映画を観て、それをプロット(ハコ)に戻す勉強方法)」をやりました。それはメチャクチャ大変な作業なんですけど、後々その経験が自分の脚本を書く時に生きてきた。したことがなかったし、やらされなかったらやらなかったことですけど、今も映画やドラマを見ると頭の中でその作業を自然にやるようになったから、良い訓練になりました。
他にも大根仁さんはじめ監督陣やプロデューサー陣の講義も印象に残っています。特にプロデューサーの方が「お話」を考える仕事だということを知らなかったので、「どういう脚本家と仕事をしたいと思いますか」とか聞きたかったんですけど、モジモジして結局聞けませんでした(笑)。いまはどうプロデューサーの方とコミュニケーションを取るか、という段階に入っているので。

「一次選考だけでも通ったら良いよね」みたいな感じではじめた

初等科の前期から後期がはじまった頃にかけて、同期のみんなで「学校の課題以外でも外部のシナリオコンクールにも挑戦したいよね」という話をしていました。まだ初等科前期の15分の脚本しか書いたことがなかったのですが、早いけれど60分にも挑戦してみよう、と。「一次選考だけでも通ったら良いよね」みたいな感じではじめたのかな。最初に出した後に何となく勝手が分かったので、出来上がった脚本は全部出してやろう、みたいになって、私も何本か出したんです。
それで、一年前の「フジテレビ ヤングシナリオ大賞」に出した作品が最終選考に残って、結局それは入賞出来なかったのですが、結果が出た後にフジテレビの人から「一回会ってくれませんか」という電話をもらいました。「すぐにお仕事というのは難しいけれど、ちょくちょく会って一緒に企画とかを考えていきませんか」という話をもらって去年の秋から何回か会っていたら、ありがたいことに早くも脚本家として試される機会をもらいました。「頑張れますか?」と言われて「頑張ります」と(笑)。
その話は突然決まったらしくて、ここ1ヶ月くらいはてんやわんやでした。順調に来ていて怖いくらいですし、展開の早さについていけていない…。脚本コースの課題もあったし、別の所で撮影実習もあったし、パニック状態でした。嬉しいことなんですけど、グッタリしました。

本当に大げさじゃなく人生変わったから(笑)

でも、本当に脚本コースに入ってメチャクチャ良かったと思っています。本当に大げさじゃなく人生変わったから(笑)。とにかく楽しかったです。
この学校で教えている人たちは「現役」なので、現場でやっている人たちの声が聞けるというのは他とは全然違うと思います。「教えるプロ」ではないのかもしれないし、泉さんも私の期がはじめて講師をする期だったので、最初はきっとお互いに戸惑っていたのかもしれないですが、「生の声」「熱のある声」を聞けるというのは全然違いましたね。
元々映画が超好きで、とか、超シネフィルで、という感じではなかったし、映画館でバイトをはじめたのも、何となく「ニオイ」で近付いていった感じです。何かこっちに行ったら自分に合っているのではないかな、みたいな感じで近付いていったのですが、いまでは「本当に合っていたのかな」と思えます。
フジテレビなんて、ES(就職活動でのエントリーシート)を書いてもESすら通らなかった(笑)。これは乗るべき波だなと思っているので、これからも書き続けていきます。
(インタビュー・構成:スズキシンスケ)

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