有安由希さん
プロフィール
脚本コース第5期初等科受講生
脚本という存在・手段は30歳近くになるまで気付かなくて
小説を書きはじめたのは、社会人になってからです。雑誌の記事や実用書などのライターをしながら、短編小説を書かせてもらい、長編小説の仕事をもらいました。
小さい頃から、小説はもちろん、アニメなどの「物語」が好きで、お話の中に埋没していたいという気持ちがありました。だから「小説を書こう!」という気持ちになったというよりは、お話の中にいる手段として、まずはじめに小説だったんです。それがゲームのシナリオであっても映画の脚本であっても、私にとっては物語に入っていられる手段として、あまり変わらないんだと思います。どの物語の形も好きですし。
でも脚本という存在・手段には30歳近くになるまで気付かなくて、気付いた時に「やってみたい」「小説には向かなかったネタが脚本では出来るかもしれない」と思いました。
運命だなと思って「行っちゃえ!」と(笑)
気付いたきっかけはメディアミックス作品です。村井さだゆきさんがシリーズ構成をされていたアニメを見て、原作は小説だったんですけど、文章だから面白いのかなと思っていた作品が、アニメになっても面白かったんですね。ちょうどそのアニメの資料集を読んでいた時に村井さんと監督の対談が載っていて、村井さんの言っていることが凄く面白かった。村井さんってどういう人なんだろうかと検索した時に映画美学校が出て来て、ちょうど村井さんがクラスを持つ脚本コースの申し込み〆切直前だったので、運命だなと思って「行っちゃえ!」と(笑)。
「緊張の種を孕んだ関係みたいなものが物語には必要」
村井さんの講義を受けて印象に残っているのは、やはり基礎。ハリウッドでも起承転結や序破急みたいな構成の概念があって、それぞれの構成部分を推し進める出来事がある。そういう物語の基本の構造を、仕事で物語を書くとなるとルーティン化しているところもあったのですが、改めて「作劇」について基礎から教えてもらうことで、「やっぱり大切だよね」「それって物語の骨格だよね」と思い出すことができました。
あと、村井さんの言葉で思い出すことは「緊張の種を孕んだ関係みたいなものが物語には必要」と仰っていたこと。何らかの緊張関係・バランシングがあるところに何かが起こるから物語がグッと進むんだ、ということを改めて教えてもらいましたね。
村井さんが「古今東西、物語というのはこうなっている」というやり方で教えて下さるのは、私にとって凄く気持ちのいい教わり方なんです。理路整然としていて納得出来ますし、もちろん安心感もありますが、安心感以上に、学びに来ようという人たちはそういうのが好きなんじゃないかな。きちんとした知識を得ているということで迷いを減らしてくれるところもありますし。
医療のセカンドオピニオンじゃないですけど
映画美学校でいいなと思っているところは、講師の方がどなたも尊敬出来る人であること。しかも、講評などでそれぞれがご自分の意見をバシッと言って下さるし、作品のリライトも検討してくれる。
村井さだゆきさんのアドバイスをもとに書き上げた脚本を、高橋洋さんが「村井さんとはこういうところで意見は違うけれど、僕は好みだ」と言って下さるなんて最高に贅沢ですし、田中幸子さんに「ここってどうなってるの?」と指摘していただくと、「やっぱりそこ、わかりにくいですよね!」と素直に頷ける。一人だけでもない、二人でもない、三人の講師からの意見を聞くことで、医療分野でのセカンドオピニオンじゃないですけど「そうかそういう手もある」「でもそこは私としては譲れない」みたいな自分の意見が練られていく。そういうところも面白いですね。
あとは「これでいいのか?」という意見をもらえるのが本当にありがたい。仕事として物語にかかわると、自分でも迷っている状態でアイデアを出せることはまれですから。純粋に面白さだけを追求して、迷いながらリライトを重ねられる機会もめったにない。自分は何を面白いと思っているのだろう、ということを見つめ直す期間になります。
「作劇のメソッド」/「縦軸の作り方」/「脚本家の眼になる」
高橋洋さんが担当する共通講義でも「主人公が誰なのか、どういう問題を抱えているのか、クライマックスでその問題がどう解決するのか、それが物語の縦軸になる」ということを言っていて、それも本当にそうだよなと。なので、クラス講師の村井さんの「作劇のメソッド」みたいなものと、共通講義の高橋さんの「縦軸の作り方」みたいなものを組み合わせて、今の自分の仕事にも活かしています。
技術論はもちろん、お話を作る、ひいては人間を描くみたいなことになるんだと思うんですけど、ある物事に対してどう思うか、それをどう見るのかをもう一歩踏み込んで考えるという、思考のプロセスも鍛えられました。世界の見え方が違ってきますよね。それが、村井さんが一番最初に仰った「脚本家の眼になる」ということなのではないかと思います。結局初等科でやってきたのはそういうことだったのかな。
「先生と呼ぶの、やめなよ」/「同じ土俵に立っているわけだから」
脚本コースを受講し始めてからずっと、高橋さんも村井さんも「高橋先生」「村井先生」と呼んでいたのですけれど、高橋さんと飲んでいた時に「先生と呼ぶの、やめなよ」と言われて。「尊敬していて教えてもらう立場なので先生と呼んでいたのですが」と答えたところ、「同じ土俵に立っているわけだから」と言って下さって。そうか、映画美学校の精神とはこういうことなんだ、と分かりました。
尊敬出来る人と同じ土俵にいると言ってもらえる、同じ土俵に自分も立とうという意識でいないといけないんだという実感があると、身が引き締まる部分もありますし、単純に嬉しいですよね。
ひとつのアイデアを検討して、世に出すにはどうしたらいいか、もっと面白くするにはどうしたらいいかというのを講師と一緒に考えていける場であること、それが「先生と言うの、やめようぜ」みたいな具体的な言葉になって、ストンと腑に落ちる。そういう学校ですよ、ということはHPにも書いてありますけど、それを本当に体感出来ましたね。
考えてくれる眼が自分だけではなくて複数になった
創作活動ってどうしても「答え」が出ない性質のものじゃないですか。自分の作るものに対して、絶対にこれが正解というのは、他者からは得られない。それに、自分のやり方が正しいかどうかも分かりません。もちろん講師の立場の人たちもそうでしょうし、難しいなとは思いますけど、創作にまつわることって、結局自分で考えるしかないんですよね。でも、映画美学校に身を置くことで、それを考えてくれる眼が自分だけではなくて複数になったから、解決の手だてというか、自分の納得する所ってどこなんだろうというのを、講師やクラスの人たちにぶつけて判断する、そういうことが出来るようになった。生きていくということにも正解はないと思うので、生き方みたいなものにも影響するんじゃないかなと思いますね。
開講前で迷っている人がいるなら絶対に面白いよと教えてあげたい
創作をする上では、もしかしたら突飛な人の方が個性が際立っていいのかもしれない。そういう「凄み」みたいなものがある人の方が作家性の強い作品を書けていいのかもしれないですけど、自分のような普通の人間でも、映画美学校の人たちは決して馬鹿にしませんし、「映画も多くは観ていないし、本もたくさん読んできたわけじゃないんです」と言っても「別にそれでいいんじゃない?」と受け入れてくれて、自分が出した作品やアイデアで判断してくれるのが凄く嬉しいです。
一つ一つ段階を踏んで教えてくれることで、そういう「作家性」や「凄み」みたいなものがない人間でも、ない人間なりに訴えたいことを形に出来る手だてを得る、というんですかね。そういうことができるのは、「教えてもらう場」ならではだと思います。プロ志向の人が多く集まる場ではありますが、脚本や映画に興味があるというだけの人たちも、こういうところに来て学ぶのは、それそのものが面白いことだと思いますし、もし開講前で迷っている人がいるなら絶対に面白いよと教えてあげたい。ありがたい場だなと思っています。優等生回答ですね(笑)。でも本当にそう思っています。
こんなに面白い所があるというのを32年知らずに生きてきてしまったので、脚本コースにいる若い子が憎いですもん(笑)。「こんなに若い時からここに居やがって!」って(笑)。やっぱり人生、変わりますよ。(構成:スズキシンスケ)