もう一つの問題もあります。それは、ここのような映画の学校で何を教えるべきなのか。何をというのは講義の内容ではなく、何になれと教えているのか、ということです。ここにはさまざまな科の生徒さんがおられるということですが、わたくしの大原則は間違っても個性的であろうとするなということです。自分は個性的だと思っている人が、世界の、人類の、99.9パーセントであるとするなら、間違ってもそんな連中を真似してはいけない。断固、個性的たろうすることをやめなければいけない。なぜなら、映画は個性的ではない人によってつくられた、という大原則が存在しているからです。 「映画の父」といわれるデヴィット・ウォーク・グリフィスは決して個性的な天才ではない。ごく普通の監督でありながら、それ以前には存在していなかった「映画作家」として自己を開花させた。個性的な才能という点をみれば、シュトロハイム等々、他にもっともっとたくさんいるでしょう。だが、なぜグリフィスが「映画の父」といわれているかというと、彼が普通の映画作家だったからなのです。 普通の映画作家であったということは何を意味しているかというと、与えられた条件の中で自分自身の表現をどこまで高めていくかという、いわば最良のための努力をたえず行っていた監督であるわけです。ゴダールのような人でさえ、最良のための努力をたえず行っている。「相対的によりよい表現がある」ということ、これは幻想かもしれません。だが、それを信じなくては映画は成立しません。 (2006年4月1日「映画表現論」の講義より)