高橋洋さん
映画美学校周辺には、あらゆる人が行き交っている。あらゆるタイプの作品を手がける現役映画人たちが、あらゆるタイプの作品を志向する受講生に向けて、幾重もの思考と試行錯誤を促す。フィクション・コースと脚本コースで念入りに受講生と向き合う、高橋洋さんに聞いた。
行けば、そこで映画が作られてる
高橋さんは映画美学校の設立時から関わっておられるわけですが、その当時のモチベーションとはどういったあたりでしたか
もともと僕は大学時代から卒業してからも、仲間と自主映画を作っていたんですね。まあ唯一真剣にやってきたことは映画なんで、映画の世界で飯が食えればいいなあとは思っていたけど、自分に商業映画が撮れるとは思ってなかった。やっぱり自主映画だろうと。だから何らかの仕事をしてお金を貯めて、時間を見つけては自主映画を作る、というのが僕の人生設計でした。でも30歳になって、僕は運よく脚本家として業界に潜り込めたけど、それまでの仲間もそれぞれの仕事や生活があるから、皆散り散りになっていくわけです。自主映画を作るという選択肢が、環境的に無くなりつつあるのを感じていた。だから「インディペンデント映画を作ろう」というこの学校の意志には素直に乗れたし、しかも周りは黒沢清さんや万田邦敏さん、塩田明彦さんや青山真治さんといった、自主映画時代から近しい人たちだった。その後、大学からの仲間の西山洋市さんや井川耕一郎君も加わってきて、そういう彼らと、若い人たちと一緒に映画を作れたらきっと面白い。そう思ったんです。
実際に始まってみて、どんな手応えを感じましたか
自分が監督するしないにかかわらず、「あそこへ行けば映画が作られている」という実感が生まれましたね。常時稼働している映画サークルみたいなノリ。講師も生徒も一緒になって、何かを探求して場数を踏んでいく。そういう、自主映画作りの「場」ができたというのが、一番強い感触でした。フィクション・コースの初等科では「ミニコラボ」といって、講師が監督で8分の短編映画を1日で撮る、というカリキュラムがあるんですが、そういう状況に身をおくと「映画とはこういうものですよ」というお作法に則ってなどいられないんですね。自分の本音に立ち返って、今自分が「これが映画だ!」と思うものを吐き出し叩きつけるしかない。そうすると、事前に構想していたビジョンを遥かに超えた、自分で思ってもみなかったようなものが不意に出てきたりする。そういう瞬間こそが、これからの日本映画を面白くしてくれる新しい「何か」だと。この感触を受講生たちにも伝えたいし、商業の仕事にも“輸出”していきたいと思っているんですが。
それは、頻繁に起こることですか?
頻繁というか…、それは起こさざるを得ないものなんですよ。で、世にも見苦しくジタバタする。映画を作ろうとする人は、講師でも受講生でも、好きな作品やジャンルがあって、それに囚われてしまっていることが往々にしてあるでしょう。でも、そこに囚われてしまって、事前に自分がイメージしていた通りに、過不足なく物事を収めることを作業目標にしている限り、それは映画にはならないんです。過去にどんな表現がなされたか、歴史を知ることは自分をジャッジする上でとても大事だけど(でないと、とっくになされた“普通”を繰り返すだけになったりするんで)、同時に歴史から自由にならなければならない。とても難しいところです。
では、受講生たちをどのように導くのでしょう?
僕らが教えられるのは、あくまで「技術」なんですよ。技術といってもハウツーじゃないんですよ。企画やシナリオ段階ので発想の仕方とか、現場での身体感覚とか、どんな風にキャメラポジションを見出すかとか、やってみせるしかない。で、そういう「技術」に触れた瞬間、映画を作るということの本質や根本にハッと気づく。そこは人から教えられることではない。自分自身で気づかない限り、本物ではないんだと思います。
達成感の、さらに先へ
それでは現時点では、この学校に対してどんなモチベーションを抱いておられますか
映画作りって、ものすごく具体的な作業なんです。理念やテーマ以前の、本当に具体的なことにひとつひとつ答えを出していかなきゃいけない。例えば、これは受講生が実際に書いてきた描写なんですが、家の中で母親がお客さんと話していて、そこへ息子が帰ってくる。居間でお客さんと対面して初めて息子は「あ、お客さんがいたんだ」と気づく……と彼は脚本に書いてきたんだけど、いやいや、見たことのない靴が玄関に脱いであるんだから、その時点でわかるよね?と。そういう細かいことについて、映画というのはとてもごまかしが効かない表現形態なので、そのシーンでどんな素晴らしいイメージを思い浮かべていようが、具体を前に屈服せざるを得ない。でも、そういう、自分のイメージを裏切ってくれる何かと出会うから、幾重にもイメージを練り直して、自分が考えていた以上のものに飛躍できる。そんなリアリズムは蹴っ飛ばす!という選択ももちろんアリで。それを探求しようとする受講生たちの姿は実に興味深いし、僕たち講師自身も、新しい人たちを迎えるたびに、新しい映画作りの場数を重ねるわけですから、確実にスキルアップしているわけですね。こういう局面ではこういう手があるという引き出しがドンドン増えてゆく。つまり僕らは「この手をどのタイミングで使えば、映画はどう変化するのか」を毎年試しているとも言えるんです。カリキュラム全体で。その年のカリキュラムは、前の年の反省を踏まえて、毎年、方法論を変えていますから。
「試す場」でもあるわけですね
そうですね。学校から示されたカリキュラムを、ただなぞっているわけでは決して無いです。たぶん講師陣は、学校に雇われているとは、誰も思っていないんじゃないかな。映画に対する自分の考えや実践が、どれくらい人に通用するものなのかを、自分たちなりに試している。言い方が悪いかもしれないけど、たぶんどの講師も「受講生のために何ができるか」じゃなくて「自分たちが面白がれるかどうか」を真っ先に考えていると思いますね。だって「君たちのことを一番に考えている」なんていう講師がいたら、うっとうしいじゃないですか(笑)。「本当に面白いものとは?」という容易くはない命題を相手に、七転八倒している姿を見せることこそが、一番、何かを伝えることができると思うんですよ。現に、1年間のかなり濃密な「初等科」を終えてもなお、2年目の「高等科」に進む人たちが少なくないわけで。初等科で得た達成感の、さらにその先を味わいたくて、同期の仲間たちといつも一緒にいて、何かにつけては酒を飲んだり、映画を撮ったりしている。……この感じ、なんですよね。映画美学校が持つ引力って。映画作りが個人の中で収束するのではなく、受講生同士、あるいは受講生と講師の間に、ある種の温度が生まれるんです。……これをうまく言葉にしてお伝えできたら、どんなにいいだろうと常日頃思うんですけどね。「映画美学校に来てくれた人にしかわからない何か」として片付けちゃうのは、実にもったいなくて。
個々人の実感を言葉にするのは、難しいですね
そうなんですよ。映画美学校は色んなイメージをもたれてるみたいで。10年前は「作ってる映画がどれも同じに見える」って指摘されたこともありましたけど、今はエンターテインメント作品も含め、そうとう多様化してます。そうでなきゃ次の時代に対応できないんで。むしろ、ここは一つの価値観や考えた方に囚われることを疑い続ける人たちが行き交ってる場所だと思います。最近、映画美学校はFacebookページも始めたんで、授業の面白さの「生な手応え」の感触を講師や受講生たちが発信していけるようになればいいですね。そういう言葉が一番伝わると思います。
(取材・文:小川志津子)