2013年夏現在、フィクション・コースで教鞭をとるこの人は、映画美学校きっての理論派だ。受講生たちの作品ひとつひとつについて、言葉を尽くした講評がたっぷりと綴られる。少数精鋭の修了生と共に、ゼミを構えてもいる彼に話を聞いた。

0.1のオリジナリティ

まずは、講師になられたいきさつを聞かせてください

nishiyama1フィクション・コースが開講された翌年ですね。最初お話をいただいた時、実は一度お断りしたんですよ。「映画というものに、批評的なスタンスで関わっている作り手に来てほしい」と聞かされて、それは自分じゃないなと思った(笑)。でも、その時言われた「批評的」という言葉の意味が、最近になってやっとわかってきた気がする。つまり今まで「映画」とされてきたすべて、作るプロセスも含めて、映画に関する一般的な概念や価値観を踏襲して、既成の表現方法をなぞるだけで本当にいいのか、と。そういった思考が、これからの映画には、ますます必要だろうと思うんです。特に、デジタル技術が普及して、誰でも簡単に映画を作れるようになったいまこそ、そのようなスタンスが必要で、なにか映画っぽいことをすればそのまま簡単に映画が出来るわけではなく、映画を映画として成立させるのは最近ますます困難になってきていると感じています。

西山さんのそのような思いは、何によって深まったものなのでしょう?

おそらく他の講師もそうだと思うんですが、受講生と一緒に映画について考えたり語ったりする時間が大きいと思います。講師が受講生に指摘することって、案外、講師自身が自らの問題として向き合っていることだったりするんですよね。彼らとやりとりしながら見えてくるのは、主に、自分自身のことだったりします。しかもこの学校では、実践的なカリキュラムが多くを占めますから、講師が実作の経験で掴んできたことやぶち当たった問題意識が実践的なレベルで共有されてゆく過程で、講師も自身の問題の解決や新たな発見の糸口を見出したりしていると思う。もしかしたら、映画の本質をつかむ一番手っ取り早い方法は、この学校の講師になることかもしれません(笑)。

そういった発見が起こるのは、具体的にはどのような瞬間なのでしょう

外の人に向けて何かを作るとき、僕も含め、多くは収まりのいいように、体裁よくまとめようとしてしまいがちなんですね。受講生たちがそうやって仕上げてくるシナリオやビデオなどの提出物を見るたびに、僕はついつい「壊せ!!」と思ってしまう。壊したほうが絶対面白い。というのは、体裁よく整えたものの蔭にその企画の本当の可能性が隠されてしまっていると思うからです。それを表に現したい。今も、授業ではそれを繰り返していますね。きれいにまとめることで、その人自身の可能性を狭めてしまうような気がして。

今の受講生は、大人しい傾向にあるのですか?

nishiyama4そんな気もします。多分、作り手の多くは、自分自身も含めて世界の何も変えることはできないのか、という絶望に必ずぶち当たる。でもそこをなんとか突破しようとして自分で考え、工夫をする人は少ないような気がする。今まさに作ろうとしている場面や芝居を、目の前にある世界の一部としての現実として見ていないのかもしれないし、もしかしたら絶望すらしていないのかもしれない。それを見るたび、歯がゆくてならないんですね。その姿は自分自身でもあるからです。こういう場合、自分だったら、どうするだろうか、どうしたら目の前の現実を変えられるだろうかと。

その方法を、教え聞かせるわけではなく?

そもそも、特定の手段があるわけじゃないんですよ。人によっても、時期によっても違うから。その時々、局面局面に対応して臨機応変に考えるしかない。映画の実作の現場自体がそもそもそういうものなので。ただ言えるのは、講師からダメ出しをされた時に、ただ講師の言うとおりに直すのではなく、創造的に反発して何らかの別の手を返してくるような人は、伸びる可能性が高いです。独自にその人にしか思いつかない新しいアイデアを付け足してくる感じがいいんですよ。そのようなやり取りから予想を超えた新しい展開や、なにより作者の新しい可能性が生まれるのが映画作りの創造性の根本だという気がします。

映画美学校は“ちょうどいい”

西山さんは、正規コースの他に「西山ゼミ」を構えておられますね

主に修了生を対象にして、企画や演出について考えるゼミです。同じシナリオを、各自が演出してみるという練習から始めたのですが、やはり映画は作品を最後まで作らないと、真の意味ではわからないことが多いんですね。だから短くてもいいから、自分の企画で作品を1本撮りあげて、人に見せるのを目標にしています。幸いこの学校には「映画美学校映画祭」がありますから(http://eigabigakkou.com/festival)、そこでの上映を目指して、お互いに協力して作り上げていきます。

西山さんご自身は、どのようにして映画の道に入られたのでしょうか

nishiyama3大学時代、映画サークルにいました。仲間の映画を手伝ってみたり、髙橋洋くんの自主映画に出演してみたり(笑)。大学を出てから8ミリ映画を撮り始めました。カメラを借りて、友だちを呼び集めて、お金を使うのはフィルムぐらい。考えてみると、今とあまり変わらないかも。集める顔ぶれが受講生に変わっただけで(笑)。かといって、お友だち同士の仲良しクラブというわけではないんですよ。僕が彼らの手伝いを必要としているのと同様、僕も彼らの映画を手伝ったり出演したりもする。ギブ&テイクなんですよね。お金ではない、創造的な何かを交換している。それにやっぱり、映画作りって面白いんです。生徒たちが楽しげに映画を作っているのを見ると、今でもうらやましくなります。僕も混ぜてくれないかなあって。映画の何がそれほどまでに面白いのかは、この学校に入ればよくわかるとと思います(笑)。

西山さんは「自分の作品を作りたい」というよりは「映画作りに関わっていたい」?

そうかもしれません。個人名で映画を作ることには、そんなにこだわりはないです。もし宝くじがあたったとしたら、映画作りはやめるかもしれないけど、人の映画の手伝いはやめないと思う(笑)。そう考えると、僕が今も映画に関わり続けていられる理由は、映画美学校があるからかもしれません。面白い映画を作るのだという志と、仲間を集めやすい気軽さとが、ちょうどいい感じで共存している。最高だと思いますよ。

入学を検討している方たちに、伝えておきたいことはありますか

nishiyama2僕がよく考えるのは「映画」と「映画じゃないもの」の境界線についてです。観終わって「うん、いい映画だった!」っていう場合の「映画」とは果たして何か。CGの技術が上がることで「アニメ」と「実写」の境界線が曖昧になったように、「映画」と「そうでない他のもの」の境界線もまた、とても微妙になってきている。そういう状況でこれからの映画を考えるには、昔の映画を観ておいた方がいいと僕は思うんです。過去を振り返ることは、ある意味、未来を見通すのと同じことだと思うから。だって、50年以上前に作られた時代劇なんかを観てみると、見たことのない風景の中で、見たことのない人たちが、見たことのない何かをしているわけですよね。これってつまりSFじゃないか?って思うんですよ。しかも、かなりセンスが良かったりする。映画の過去と未来について、ぜひこの学校で、話を一緒にできたらいいなと思います。

(取材・文:小川志津子)