「音が奪われた世界から映画を発想する」高橋洋

サイレント映画からトーキー映画という映画の発達の歴史がありますよね。最初はサイレント、それに音が付いてトーキーになった。このプロセスをフィクション・コース初等科のカリキュラムはなぞっています。

最初に16ミリカメラをまわしてもらいますが、それは音がないサイレントなんです。だから最初にサイレント映画を皆さんは撮るわけです。そして、次に行う演出実習1はアフレコなんです。アフレコというのは撮影の時に音を録らずに、後から録音した台詞や音をかぶせていく作業です。

そういう風に、映画は最初サイレントで、その後でアフレコという行為を通して音を足していったということを体験して、発見してもらいます。これは非常に重要なプロセスです。皆さんのなかには映画を撮られている方もいると思いますけど、今はDVキャメラが全盛で、DVキャメラは同時録音がたやすく出来るわけですよね。現場の生の音を拾った映像は、やっぱりその生の音の力によってリアリティが保証されて、ある意味で画面がもってしまう。しかし、「音が奪われたらこの画は何秒もつの?」ということを、DVっていう便利な機械のおかげでみんな考えなくても良くなっちゃったんですね。

これは映画にとってかなり致命的なことで、やっぱり不自由から出発した方が人間はいろんな事を考えるんです。音が奪われている、音がない世界で「この画はいったい何秒間もつのだろうか?」というものすごい根源的なところから映画を考え初めて、そのときにサイレント映画を見たりすると、不思議なことに、逆に「何で映画に音が必要だったんだろう?」と混乱してしまう。そういう体験をするんですよ、サイレント映画を見ると。「サイレント映画」という一つの様式があらかじめあったわけではなくて、音がない条件で、かつて映画人は一から表現を発明していったということが見えてくる。そういうことを体験してほしいカリキュラムをつくったので、是非参加してみて下さいということですね。

脚本については、今回の初等科では15分という短いシナリオをまずは書いてもらいます。15分と聞くと、たったそれだけの尺でいったい何が表現できるのかと思われるかもしれません。しかし、これもやってみれば分かるんですが、15分って相当長いです。相当多くの情報を詰め込むことが出来ます。それを体験してもらうと、今テレビ等々で流れている15分の映像がいかに隙間だらけかということが分かると思います。

つまり、視聴者にとって出来るだけ見やすく、負担が無い、ゆるい映像を現在の映像の世界は流しているわけですよね。でも、それだけが映像じゃない。もっと情報が詰め込まれた、緻密に構築された映像だってある。そういうことをシナリオと演出と両面から体験してもらうわけです。
(2006年7月8日「募集ガイダンス」より)

「映画は個性的でない人によってつくられる」蓮實重彦

もう一つの問題もあります。それは、ここのような映画の学校で何を教えるべきなのか。何をというのは講義の内容ではなく、何になれと教えているのか、ということです。ここにはさまざまな科の生徒さんがおられるということですが、わたくしの大原則は間違っても個性的であろうとするなということです。自分は個性的だと思っている人が、世界の、人類の、99.9パーセントであるとするなら、間違ってもそんな連中を真似してはいけない。断固、個性的たろうすることをやめなければいけない。なぜなら、映画は個性的ではない人によってつくられた、という大原則が存在しているからです。

「映画の父」といわれるデヴィット・ウォーク・グリフィスは決して個性的な天才ではない。ごく普通の監督でありながら、それ以前には存在していなかった「映画作家」として自己を開花させた。個性的な才能という点をみれば、シュトロハイム等々、他にもっともっとたくさんいるでしょう。だが、なぜグリフィスが「映画の父」といわれているかというと、彼が普通の映画作家だったからなのです。

普通の映画作家であったということは何を意味しているかというと、与えられた条件の中で自分自身の表現をどこまで高めていくかという、いわば最良のための努力をたえず行っていた監督であるわけです。ゴダールのような人でさえ、最良のための努力をたえず行っている。「相対的によりよい表現がある」ということ、これは幻想かもしれません。だが、それを信じなくては映画は成立しません。
(2006年4月1日「映画表現論」の講義より)

「方法論の二者選択を突きつけられる感覚を知っておいて欲しい」青山真治

『ラルジャン』(1983 ロベール・ブレッソン監督)の極めて周到な編集、次から次へと省略していく方法と、『現金に手を出すな』(1954 ジャック・ベッケル監督)のほとんど省略しない方法。どちらが良いかを言いたくてこの講義をしているわけではないです。どちらでも良いです。どちらもありで、どちらも映画なんです。ただ、題材にとって何が適切なのか、題材が何を要求しているのかを真剣に考えると、こういう両極端の事が起こってしまうわけです。一方でまた、題材を選ぶのも彼らの仕事であり、彼らの生理でもあるわけで、そうなると、この題材を選ぶ生理が、この技法、この省略法、この話法を選んでいると言っていい気がします。つまりそれはそれぞれの人生の問題なのではないか。

僕が初めて『現金に手を出すな』を80年代の中頃にアテネ・フランセで見た時に、ちょうど『ラルジャン』が公開されていました。その当時、僕自身、映画作家になろうというつもりはさらさらなかったんですけれども、この両方を見た時に、自分が映画を作るとして、どちらかを選ばなきゃいけないとしたら、どちらを選ぶかという風に突きつけられた感があったんですね。今、皆さんは映画を作り始めるその渦中にいるわけで、その時に、いわば人生の問題として、こういう方法論の二者選択を突きつけられる感覚を知っておいて欲しくて、この講義をやっているわけです。
(2006年3月18日「映画表現論」の講義より)

「大衆映画から学ぶことはたくさんあります」アルノー・デプレシャン

それからどんな国のものでもいいのですが、大衆映画を見て下さい。大衆映画から学ぶことはたくさんあり、それは必ず皆さんが、映画を撮るとき道具として役に立つでしょう。しかし、大衆映画を見るときでも、価値尺度の上下関係をつけて見てはいけません。ただ、自分の好きな映画を見ればいいのです。例えば、青山真治の方がかっこいいだとか上だとか考えないで下さい。すべて同じです。自分が好きな映画を自分のやり方で見ればいいのです。たとえそれが10歳の時に見た映画であっても25歳で見た映画であっても構いません。大衆映画を見ること、映画を好きになり、その好きな映画を見ること。そうすれば、映画の方があなたを好きになってくれる、そういう映画に出会うことができると思います。今週は青山真治の映画を見て、来週はジュリア・ロバーツの映画を見て、その次はワイズマンのドキュメンタリーを見て下さい。
(2006年2月1日「特別講義」より)

※本講義は「すべては映画のために!/アルノー・デプレシャン発言集」(港の人/ 新宿書房刊)に完全採録されています。

「映画は”使命”なのです」テオ・アンゲロプロス

私は様々な国でマスター・クラスを行ってきました。そこで多くの映画を作ろうとしている若者たちと出会いましたが、彼らからは私たちが映画を始めようとしていた頃にあった熱意が感じられません。彼らはむしろ、仕事をするために映画を作ろうと思っているような気がしました。映画は仕事ではありません。少なくとも私がこうあるべきだと思っている映画、こうあり得ると思っている映画は、仕事、職業ではなく、“使命”なのです。

世界を良くしていきたい思う宣教師たちは今何人いるでしょうか? TVや商業的な映画が語る言語とは違う言語を語りたいと思っている人々は何人いるでしょうか? 彼らはおそらく少数派でしょう。しかし、様々な時代において、少数派が小さな変化、大きな変化をもたらしたことがあります。

ですから、私は今の時代はひとつの移行期にあると思いたいと思います。今までに存在したものと来たるべきものとの中間の移行期であって、待機している時代だと考えたいと思うのです。待っているのは、より良いもの、より本当のもの、真実です。それを来させようとするのは、あなたたちだと思います。私たちの世代はいま通り過ぎて行っています。皆さんは自分に対して疑問提起をしなければなりません。「映画とはなにか?」「映画に何を期待するのか?」「なぜ映画を作りたいのか?」それを自分自身に対して問いかけるべきでしょう。

もうひとつ重要な疑問があります。皆さんが自分に問いかけなければならないこと。「果たして、映画は私を望んでくれているか?」「映画は私を欲してくれているか?」という疑問です。おそらく、ひょっとすると、世界を変えるために、自分たちが何か小さな寄与をすることができる。そうした可能性が生まれてくるかと思います。
(2005年1月26日「特別講義」より)

※本講義は、アンゲロプロス監督が『エレニの旅』(フランス映画社配給)の日本公開のため来日なさったことで実現いたしました。なお、渡辺進也氏の取材・構成による更に詳しい講義のレポートをnobodyのウェブサイトで読むことができます。
http://www.nobodymag.com/interview/theo/theo1.html